昭和四十六年三月七日


 御理解第九十八節
「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には取分け平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」


 落ち着いて静かに願え。平気で居ると云うこと。なかなかあの人は落ち着いた人じゃと、落ち着いた人と落ち着かぬ人とがありますね。少々の事があっても平気で居る人がありますね。なかなか平気で居る人は、この人は横着じゃなかろうかと平気で居る人がある。
 だから、そういう平気では定規、神信心の定規にはならない訳です。心は神信心の定規じゃによって、それによって自分の信心が出来ているか、出来ていないか分からない。自分の心の平常心と云うが、そういう心の状態がそのままが神信心の定規ではない。
 何故って、生まれつきの人がある。生まれつき落ち着いた人がある。落ち着けない人もある。余り物事を気にしない人がある。
 どんな事が起こっても平気な人がある。と云うと一寸した事で平気になれない人がある。ですから、それは神信心の定規にはならない。何処までも神信心に依って頂いた心の状態の事を云うことを云うておられますね。
 私共どっちかと云えば平気でない方なのです。落ち着きが無い方です。そういう性格です。まあ慌て者ですね。一寸した事が気になって気になって仕様の無い性格ですね。
 ところが段々信心させて頂くようになったらおかげを頂いて平気でおられる時間が段々永くなって来た。どう云う場合でも、さあ先生どうしましょうと云うことが起こった。困ったことが起こって来ても、何ばあなたそげん騒ぎよんなさるかと云えれるだけ心が段々それに近づいて来た。落ち着いて。
 昔頂いた御教えの中にね、例えば、チキリの様なもの、秤です。定規と云うてあります。チキリの様なものです。
 例えば、ここに百斤掛かりなら百斤掛かりのチキリがある。例えばそれがいっぱしの百斤のものを持ってきても、分銅を百斤目盛りのところに有れば、平になっとりますですね。そうでしょう。
 教祖様が今日ここで教えて居られるのはそう云うことです。
 例えば、私共が百斤掛かりの人もあれば、千斤も万斤も掛けてもびくともしないと云う様な秤も有りましょう。
 薬なんか小まい何グラムと云うごとあるとで計る様なものも有ります。ですから、信心させて頂いて、例えばその百斤位の事ではびくともせん。千斤位ではびくともせんと云う様に自分の信心が段々進むに従ってそのところのおかげも頂かなければならん。
 ところがです、例えばそのチキリが小さかったり致しますと、まあ十斤掛かり位しか無いものを持って居って、十五斤のものを持って来ますと、跳ね上がって仕舞う。いわゆる上がって仕舞う、平気で居られない、落ち着いておられない。
 例えば、十斤掛かりのものを持って居ってです、さあ十斤の分銅をね、十斤のところへやれば平常でおれる。水平でおれれる。ですからその分銅なんです。さあどうしょうかと上がって仕舞わずにね、 私は思うんですね。御理解第十九節にね、「金光大神は形が無うなったら来て呉れと云う処へ行ってやる」
 来て呉れと云うところへ行ってやる。御理解第十九節ですね。
 「金光大神は形が無うなったら来て呉れと云うところへ行ってやる」と仰せられておる。私共金光様の御信心させて頂く者はね、そこんところが信じられるおかげを頂かれると段々どう云う事が起こって参りましても、これからどの様な事が起こって来ましても驚いてはならんぞと、又の御理解にあります様に金光様と唱えさせて頂いたら金光大神がここに来て下さるんだと云う信念を持たなければいけません。その信念が強うなからねばいけません。
 金光大神様、それが分銅なのである。例えば、百斤掛かりのところへね、例えば五十斤のものを持って来ても、分銅を五十斤のところへ持って來なかったならば平常でありません。上がって仕舞います。ですから、金光大神と唱えて、いわゆる日頃の信心を心の中に頂かせて貰うだけの分銅を頂かせて貰ってそこに持って來る。そういうおかげを頂かねばいけません。
 普通は出来ておるけれども、いよいよ本番になると非常に本番に弱い人がある。これはやはり性格的にです、落ち付いた人と落ち付かない人が有る証拠です。
 ですけど、信心させて頂く者はです、例えば今試験のシーズンです。試験を受けに行くと云う人に自分の実力と云うものが充分発揮出来るように御繰り合わせ願わなければ、場合に依っては実力以上のお繰り合わせと云うものを頂かせて貰わねばならん。為には試験問題を見たとき金光様を唱えさせて頂いたら心が落ち付くだけの信心を頂いておかねばいけないと申します。落ち付かぬ時は何回も何回も金光様生神金光様と唱えなさい、と云う具合いに・・・
 そこにいわば、金光大神は形が無うなって金光様が来て下さっても、金光大神が働いて下さると云う信心が無かったら、矢張り上がって仕舞わなければなりません。落ち付きます、落ち付いて静かに願え。
 若先生がまだ学院に行く前でした。矢張りここの次代を継がにゃならんと云う責任を感ずるのですね、段々、高校を卒業しましてから毎日親教会に日参を始めました。そういう矢張り将来は取次者としてのおかげ頂かんならんのに、本当に神様がござるかござらんかを確かめなければお取次が出来る事じゃない。その神様を分かりたい。神様が分かりたいと云う様な、まあ云うなら心を起こした訳でしょう。それから毎朝日参をする。夜は寝ない修行をして見る。まあ様々に自分は修行させて頂いたけれども神様のかの字も分からない。そういう様な修行させておる或朝、お夢を頂いた。そのお夢と云うのがどういう様なお夢であるかと云うと、御結界に自分が奉仕している姿を頂いた。あの人は十一、二位の時から毎日一時間づつで有りますけど学校から帰って参りますと夕方から、六時から七時までの間のところ御結界奉仕させて頂いておる。まあ小さいながらも、まあ可愛らしいと云えばねえ。本当に、むつ屋の石井さん、あき子さんのお母さんになる、紋付袴をすぐ仕立ててお供えして下さいました。今残っておる小さい紋付と袴が。
 本当に小さい紋付と袴と云えば私は、一日か二日前にですね、話は違いますけど、お夢の中に三代金光様が現れなさってね、私に黒衣を下さるんですよね。奉仕衣を、でこれは私が十代の時に着た奉仕衣だと仰るんですね。
 十代と云っても、十四、五の時に着られたのじゃなかろうかと思われる位の奉仕衣、その奉仕衣を頂いた夢を頂いたんですけれども、ま、今日の御理解と関係無い様ですけど、まあ金光様が十四、五位の時に御結界奉仕をなさった位なところが、今私は出来て居るんじゃなかろうかと思うた。秘かに自分が思うた。
 けれども、勿体ない事であるな、有難い事であるなと思わせて貰うたですけどね。云うならば、今日の御理解からそれを引用するならね、段々、百斤掛かりの処まで行っても、十斤掛かりか二十斤掛かり位のところじゃなかったろうかと思う。それ以上の事は出来ないと云う訳です。ま、そんな風に私は感じたんですけどね。
 若先生も小さい時から御用奉仕の正月元旦の初日の日に奉仕をする夢を頂いて、矢張り自分が一心の奉仕をしたんですね。
 それは絶対のもの、親戚に歩きに行きましても泊まらんで帰って來る。一晩位泊まったって良いでしょうと向こうから云われると、いや奉仕があるからと帰って来よった。
 そういう様に中学、高校と出ましてから、いよいよ本式に取次者としての修行させて頂かにゃならんが、とても神様が分からんでは奉仕は出来ないとして、神様が分かりたい。だから神様の声も聞きたい。神様もし姿が有るならば神も姿も頂きたい。お知らせも頂ける様になりたい。そこで様々な修行をしてみたけれども、神様のかの字も分からなかったけれど、そういう夢を頂いて、お知らせを頂いて、自分が御結界に奉仕をしておる姿を頂いた。そしてこのお取次のこれですね、玉串板ですね。お初穂の上がる玉串板がそれはもう見た事もない程に頑丈な厚い大きな玉串板が上がったと、しかも玉串板のおへぎが斜めに置いてある。しかも削り込んだ様にしてある中に、そういうお知らせを頂いた。だからこれは、取次をさせて頂く者はです、例えばお幣木が斜め向いている。信者の方を向いてないと云うことは、お供えが有るとか無いとか、多いとか少ないでこちらがね、お取次のこちらはこの人は百円じゃけん百円がとお取次しとこうと云った様なことはいらんゆうこと。
 お初穂が有ろうが無かろうが、皆様々な難儀を持って来てです、先生お願いしますと云うて来たらです、どういうそれが千斤万斤のものでありましても、ここに置いてびくともせんと云うお知らせ。この玉串板が大きくてこう厚かった。
 と、云うのはここに百斤二百斤のものを置いてもこの玉串板がびくともしない。ところがこの玉串板がちょっと重いものを置いたら歪むと、お供えが多かったりお初穂が多い人は丁寧なお取次をする。そういう事では取次者としては値打は無いぞと云うお知らせを頂いた。ですから、いよいよ神様が分かるか分からんかは別として、そういう神様を頂かせて貰う、いわゆる信ずる力、金光大神が形が無うなったら来て呉れと云ったら来て下さるんだと、ここには金光大神がいつも御用をして下さってあるんだと自分は手代わりなんだと、そういう思い込みが段々強うなって、自分が取り次ぐのじゃない、金光大神が取次いで下さるんだ。だから自分が神様が分からなくても自分が空しくさえなって行けば良いのだ、自分がいよいよ馬鹿か阿呆になっとけば良いんだ。云うなら、自分が藁人形になっとけば良いんだ。むしろここでは、命の無いもの、そこに金光大神の働きと云うものがあるのだ。だから神様が分かると云うよりも、自分を空しうすると云う修行をしなければならんと、云った様な御理解を頂いた。だから、ここに座らせて頂く者は、云うならば神様は分からなくっても無心であれば良い。金光様今誰か参ってきてこういう問題をお届けしております。どうぞ宜しくお願いしますと云う様なだけで良い訳です、取次者は。
 ところがなまじっか、ここに座らせて頂く者が人情を出す、人間心を出す。自分が取り次ごうと思うところに段々おかげが受けられなくなって來るのではないでしょうかね。
 心は信心の定規。心は信心の定規だ。自分の心の中にどれだけ空しいものが出来て居るかと言う事なのです。
 空しいと云うことは自分と云うことが無いと云うことです。我が無いということです。それが、云うならば信心の定規だとこう申しますね。一ぺん死んだら二度とは死なん。ですから矢張り死んだ気でと云った様な心の状態と云うものは素晴らしいことなんですね。 そういう例えば言葉にすれば容易いことですけれども、実を云うたら難しいことなんですね。自分が空しくなって仕舞うと云うことは、そこで段々おかげを頂かせて貰って、ここでは金光大神と云う前に親先生と云う様に皆さんが親先生と云うた方がおかげが早いとこう云う。金光大神には手が届かんけれども、親先生には毎日そこで私共のこと願っておって下さる、祈っておって下さる、お取次しとって下さる。それが段々信じられる様になって來る。
 親先生があの様にしてお取次して下さってあるんだからと信じられる様になる。親先生と云うことも金光大神と云うことも同じなのである。けれども、親先生の方が手近にある。手近なところにある。
 ですから、親先生たるもの、云うなら取次者たるもの、お参りして來る人達の信用を得させて貰う修行が必要である。形だけでなく、そこにはたゆまざる修行が求められる事だと思うのです。
 昨日、一昨日です。私は初めてそういう表現で三人も続けてお取次させて頂いたり聞かせて頂きました事があるんです。
 丁度朝の御祈念の後に吉井の中村さんがお参りにお見えになりました。電車がブレーキが利かずに事故を起こしましたね。二、三日前でした。そのことをあちらは息子さんと二人暮しですから、偉い大変なことが起こったなあと、けども、その中に合楽様を信心する者ならば恐らく助かっただろうなあと、俺なら信心はせんけれども、合楽様と云うじゃろうなあとそしたら助かっとったろうと息子が言いましたと。信心はないけれども、合楽のことをその様に考えとって呉れると云うてお届があったんです。合楽様。
 その前の晩のこと、滝本さんが髭を剃りに来て床屋さんで佐田さんのお導きでお参りになっとられますが、その方がしきりに言われるのです。
 私は今信心は分かりませんけど、息子があの様にしておかげを頂いていっておりおます。どうでも私共が信心を頂いて合楽様の為一生懸命御用でもさして貰う様な私共じゃなくてはいけんと思いますと云われる。矢張りその日でした。久留米から初めて参って来たと云う方が息子さんのことで参って来てありました。その方は後で聞きましたが、或教会の信者さん。とにかく合楽さんに一ぺんお参りしてお伺いして来んの、とにかく合楽様は大変な(  )してござると云う話を聞いた。だから、合楽様ちゃ金光様じゃないかと思うたら金光様でしたと言われる。それが丁度時間で云うならば僅かの時間の間に、前の晩から翌日の朝迄に三回合楽様と聞いた。
 私はその、ああ合楽様と云うことを何べんも聞く日だなとこう思うた。もう後にも先にも合楽様なんか聞いたことはないけど、これは合楽の御比礼だなと思いましたね。
 まあそういう呼び方をするところは全国でも無いでしょうけれども、大阪の玉水教会に参りますと、大阪に参りますと宿に泊まって玉水教会のことを聞きますと、ああ玉水さんですかと云いますよ。それこそ知らん者は居りはしません。皆玉水さん、金光様と云う者は一人も居りはしません。玉水さん、玉水さんと申します。
 宿屋の女中であろうが、子供でも知っとります。
 どうですか、今日久留米で未信者の方達の集合がありますが、久留米で金光様は何処にありますかと聞いても知らん人が多いですよ。何処で見たごとあるがと云う位の事ですよ。
 それだけの比礼が違う。ところが大阪の玉水教会と云えば、それこそ大阪に居る者ならば誰も知らん者は居らん位に知っておりますよ。ああ玉水さんでっかと云います。道を尋ねますと私もこれは段々おかげを頂いて合楽もこれは、それこそ皆さんが合楽さん、合楽さんと云う様になれば金光様はあっちこっちあるけど、迂かつにしとるけど、合楽さんはここ一軒、ああ合楽様ですか。
 昨日でしたかね、或教会で結婚式があったんです。ところが、遠方から親戚の人達がいよいよ来とんなさる。ところが金光様聞きなさったところがね、金光様ちゃ知らんばってんが、ずっとこんバス通りにですね、合楽ちゅうところがあります。あそこに金光様がありますと此処まで来なさった。それは或教会ですから、そこを教えてあげましたけれども、と云う位に合楽は有名ではあるんです。
 しかもそれが合楽様と呼ばれる様になったら大変素晴らしかと思いますね。同じ日に三回合楽様と聞いてからこれは只事じゃないなと思いました。なら玉水あたりでは信心の無い者でも八つ波の御紋がありますが、その御紋をみて行くとその日の商売が多いと云うて大阪は商売人の町ですから、表を通ってそれを撫でて行く様な迷心的なことですけどもそういうことにまで有名なんです。
 だから金光様とは言わんでも合楽に行きゃおかげ頂くと云う様に信心の無い人達でもね、思い込みが出来る様になったら段々素晴らしい事になってくる。そこに金光様が表れなさる。
 少し話が外に行った様ですけどね。親先生と云えば心が落ち着く。合楽様と云えばそこに神様が働いて下さると信じれれる。ですから、ここで云う平気であるとか、静かであるとか、落ち着いてとか、生まれつきに落ち着いていると云うことはおかげにつながらない事である。それは慌て者より落ち着いた人の方が良いでしょう。
 けれども、落ち着き過ぎてかえっておかげを落とすことがあるかも知れませんよ。ですからこれは何処迄も、心は神信心の定規と仰せられるのですから、神信心、金光様の信心をさせて頂いて金光様と唱えれば金光大神ここに来て下さると信じれれると云うこと。
 形は無うなったら来て呉れと云うところに行ってやると仰せられる。それを私共が金光様を唱える、親先生を唱え又は合楽様と唱えさせて頂くところへそこに合楽の御比礼は輝く。
 そこに金光大神の御出現を頂くことが出来ると、そこにお出ましになって頂くことが出来ると、自分の心の中に宿って下さる程しのおかげが頂けるときに平気になれるのであり、落ち着いておられると云うおかげでなからなければならないと云うことであります。
 ただ、生まれつき落ち着いた人とか、少々のこと聞いたっちゃ平気で居れるのとは違う。神様を信じる力が段々強うなって來るから落ち着いて居れる、平気で居れると云うことでなからねばならんと思います。
 ですから、生まれつきに慌て者であろうが落ち着いて居る者であろうが、これはなべて同じなんだと云うこと。
 あの人は生まれつき落ち着いてあるけんおかげ頂きなさることは決してない。信心をもって落ち着けて、信心を持って平気であられると云うのでなければおかげにはつながらない。
 信心を無くして平気でいたり、落ち着いたりして居ると或場合はあれは横着者だと云われることすらある。
 落ち着いてる為にかえっておかげを貰い損ねると云ったことにもなる。但し信心に依っての事、金光様を唱えさせて頂いて心が落ち着く。いよいよ一心になれる。さっきチキリの話を致しましたが、どういう重いものを持って来ましても自分が大きなチキリになればなる程、百斤のものを持って来てもその百斤のところへ金光様と云うのは目盛り、分銅をここに持って來る様なことだと私は思います。
 さあ目の前が真っ黒だと云うことが起こった時でも、金光様を唱えて分銅をそこに持って來るところに心の落ち着きが出来る。
 その心の落ち着きの状態が神信心の定規じゃと云うことになります。
 金光様、金光様、金光様と唱えても唱えても自分の心の中に落ち着きが出来ないとするならね、自分の信心の状態と云うものを、自分の信心の程度と云うものを知らねばなりません。
 そしていよいよ金光様を唱えさせて頂く力強さ、金光様がここにきちっと働いて下さることもです、実感そのものを積ませて頂いてどの様な場合であっても金光様を唱えることに依って落ち着いて居られるだけの信心を目指さなければならんと云うことになりますね。  どうぞ。